VOCALOG

声と雑音の間への回顧(上)

『自己紹介』

はじめまして。私の名前はSTAR.ac.jp。今回このVocalo Imagineに寄稿したのは、昨年の十二月二十九日行われた、VCCCP(VOCALOID文化系サークル合同忘年会)においてくんぺー氏にそれとなく催促頂いたからである。VCCCPとは、DAIM,VOCA’ON,VOCALO CRITIQUEといったVOCALOID関連サークルが合同で開催した忘年会である。
VocaloImaginはTwitter上でその存在を知り、無理を行って「欲しい」と頼み込み、わざわざVol.0もVol.1もくんぺー氏に郵送していただいてもらっている。そんな迷惑をかけておいて、お願いされていた日には書かないわけがない。くんぺー氏を始めVocaloImagineの皆様にはこの場を借りて再三のお礼を申し上げる。本当にありがとうございます。その上原稿まで寄稿させていただけるとは・・・。
ちなみに私がVCCCPに参加したのはDAIMというWeb上に公開されている作品を主にしたレビューサイトにおいて、駆け出しレビュワーをやっているからだったりする。露骨に宣伝をしておこう。

 DAIM 「http://c-daim.tumblr.com/

さて、DAIMの宣伝を行いつつ、何を起稿しようか。曲のレビューでもいいのかもしれないが、それはDAIMを見ていただきたい。ということで、何か変わったことをさせていただこう。そうだ、せっかくだから「VOCALOID観」というものについて考えてみよう。

私にとってVOCALOIDとはなんだろうか。そもそも初めて合った時は未知なる存在だったVOCALOID。通常人は、未知なるものに遭遇すれば示す反応は二つで、それに興味を持つか、否定するかのどちらかだ。私は後者だった。
極端な否定とまではいかなくても「なにそれ」の一言で関わりを避けようとするのは人間の性か。この反応を示す人は少なくないはずだ。世間にいま一つVOCALOIDって何?というのが浸透してない理由の一つでもあるだろう。

幸いながら、今は動画をレビューするほどに、いわゆる、「ボカロ廃」というものを名乗ってもいいらしい。だが当初はいわゆる「名曲」というのを聞いても感動することはなかった。「感性が死んでいる」というわけではない。これについて少し話をしようか。

『人は「初音ミク」を受け入れられるか?』

人は「初音ミク」を受け入れられるのか?単純な問だ。ある人は「ミクさんマジ天使」と答えるだろう。そしてある人は「気持ち悪い」と言うだろう。そんなのは当たり前である。じゃぁ「気持ち悪い」っていう人がいずれ「ミクさんマジ天使」というようになることはあるのか。「そんなものはケース・バイ・ケースだ。」と言う人もいるだろうが、私はそうは思わない。
人は見知らぬ何かを許容する、その態度がなければいかなるものも何も受け入れられない。私はそう考えている。事実先ほど「名曲」を聞いても受け入れられなかった私は、「初音ミク」を理解する気なんてさらさらなかった。受け入れるつもりも無い人にどんなに「曲」を聞かせても受け入れる訳がない。そんな単純な話だ。

「私がこの曲で初音ミクが好きな人を増やす。」

そんな事は可能なのだろうか?本当に「曲」だけで初音ミクが好きな人は増えるか?少なくとも私がVOCALOIDを好きになったのには「曲」以外の要素が多数に複雑に絡み合っていた。まずは人の和だ。周りにボカロ廃というのが数人いた。その人達から「この曲がいいよ」と勧められていても受けれ入れられなかったのが出発点。歌ってみたの人の声がするものは数曲気にいった。その中の一つはDAIMでレビューさせていただいた。では、

「歌ってみたは、VOCALOID好きを増やすか?」

と言われるとそれも微妙なところである。単純に曲として気にいった。とか、それでも「不自然な声は嫌い」という声は普通に上がってくるだろう。好きな曲。好きな音程。好きなメロディ。でもその「音」が嫌い。

『声ではないのか?』

VOCALOIDは歌っている。ならば嫌いなのは「歌」のはずだ。でもVOCALOIDが嫌いな人はおそらくそう言うだろう。「音」だと。「高音で耳障り」「ヘタクソ」「うざい」なんとでも言うだろう。その人はそれを「歌」とは認識していない。その人は、「雑音」と認識しているのだ。

「雑音」とはなんだろうか、受け入れられないものだ。聞きたくないもの、排除してしかるべきもの。その雑音と認識しているものを「これがいい」と聞かせられた人はどう思うだろうか。単純だ。「しつこい」「いい加減にして」こういう答えだろう。ノイズを長時間我慢して聞いてる人間は、おそらくは存在しない。そんなことをされれば「気持ち悪い」というのも納得だろう。事実私がそうだったように。

 それでも気に入った曲はあった。

だが、気に入った一曲さえあればVOCALOIDへの理解への足がかりになる。私の場合はそれは複数存在した。良調教とはいえなくても気にいったのだ。「雑音」のはずなのに?
人がそれを「雑音」と認識しないのはどういう時だろうか。単純だ。それを聴いているときだ。あなたがそれを自ら聴くという行為で受け入れるとそれはもう「雑音」ではなくなる。排除されるものが「雑音」であるからだ。排除されないということはそれは「雑音」じゃない。とっても簡単な話だ。

つまり私は、その曲を「許容」することができた。受け入れることができたということだ。どうして?他の曲とは違い、なぜ私は受け入れられたのか?

それには、きっかけというのが必要だ。私が得意としている会計学(最近勉強さぼってるけど)を勉強し始めた時もそのきっかけがあった。勉強したいと思えるそのようなきっかけがあった。おそらく多くの人が「減価償却」とか「焼却債務取立益」とかいう言葉を聞いたら自然と拒否反応を起こすだろう。VOCALOIDも一緒なのだ。私は「減価償却」が何か知っている。まずは「知る」それが何かを。

『VOCALOIDって何?』

「初音ミク」と答えてもいい。それは正しい。ただし、それは「初音ミク=VOCALOID」であって、「VOCALOID=初音ミク」というわけではない。これはいわゆる「必要十分条件」の問題である。「初音ミクはVOCALOID」これは正しい。では「VOCALOIDは初音ミク」これは正しくない。なぜならVOCALOIDは初音ミクだけじゃない。多くの種類がいる。ちなみに私が好きなのは巡音ルカと猫村いろはだ。他の子も好きだが。やはり猫とまぐろ(猫用まぐろ缶)がいい。

それでは、VOCALOIDとはなんなのだろうか。これについては各々の答えがあるだろう。ソフトウェアだったりキャラクターだったり、突拍子のない答えも中には存在するだろう。これを表現しているのが、MIKUMENTARYのトレーラーだ。

MIKUMENTARY(ミクメンタリー)
http://taraknight.net/

Mikumentary Teaser Trailer – English / Japanese Version
http://vimeo.com/51009913

このトレーラは一度は見るべきだと思う。

ここにある意味での答えがある。VOCALOIDとは何かと問われれば多くの答えができる。それは全て正解であるが、必要十分ではない。
しかし、それが答えだ。VOCALOIDというものを正確に定義する答えは存在しない。あえていうなら「概念」とでも言えるだろう。もちろん、VOCALOIDそれ自体は技術であり、ソフトウェアであるということはわかっている。しかし、なら実際にそれだけなのかと言われると違う。物事には何事にも多面性があり、初音ミクに関してもそうなのだ。彼女はVOCALOIDであり、キャラクターであり・・・なんでもある。その答えの例はぜひともミクメンタリーの方で感じて、そして自らのフィーリングで確認していただきたい。

『その人が知りたい「初音ミク」』

人には「知識欲」というものが有るらしい。私は高校に入学し、会計学というものに触れるまでは信じてなかった。だが知りたいという欲求は誰もがもっている。そのことを人は「興味」「関心」と呼ぶ。この状態の人は極めてポジティブである。多くの物事を受け入れる体制ができている。つまり人に何かを知ってもらうにはその状態になってもらわなければならない。簡単なことだ。その人が知りたいことを教えればいい。

「VOCALOIDって何?」

その問があるということはその人が知りたいVOCALOIDの一面があるハズなのである。その人が知りたいVOCALOIDの一面は必ずしも「曲」ではない。この経験は多くの人がしているのではないだろうか。

私が知りたかったVOCALOID・・・初音ミクは、「曲」ではなくて、何がすごいのか。どこがどうすごいのか。だった。
なにがすごいか説明してもらっても「どこが?」となることは多い。その説明では人は納得していないということだ。「気軽に曲が作れますよ!」「だから何」という問答はいろんな人が経験してないだろうか。雑誌でも「ここがすごい」と言われてもその人にその「すごい」を図る物差しがない自分で曲を簡単に作れることがすごいとは感じない―その物差しを持ってない人が圧倒的だ。何がすごいのかを話すのにもその人の物差しはどこにあるのか。そこが本当に大事な部分になる。

私がびっくりしたのは何であったのか。

私がびっくりしたのは、このムーブメントが近年起きていて、しかもそれで毎日多くの曲が制作されていたことだった。曲自体は「微妙だな。」と思うことが多かったのだが、「そういう事ができる」といのが衝撃だった。ちょうど自分の内面にある「モヤモヤ」を表現する事ができるツールである「ニコニコ動画」を発見した時のように。

そこから曲を「聴」き始めた。そして良い曲に出会うことができた。曲を聴こうと思う気が起きたのはVOCALOIDってのはこんなことができるからすごい!というのを理解した後だった。つまりVOCALOIDへの興味関心をもち初めて「そのすごいものの成果ってのを見てみよう。」という気になれたのである。

『私にとってVOCALOIDとは』

私にとってVOCALOIDというのは。そうだな。少なくとも一時的ではあるが彼女を与えてくれたし、(数ヶ月で別れた)私が知らなかったことをいろいろ教えてくれた。私自身はVOCALOIDで曲を作ったことは無いが、歌わせたことはあった。初音ミクのデモに「小さい秋」を歌わせたことがある。難しかった。出来上がったそれは無機質でなんとも言えないシロモノだった。悔しかった。そのような経験もVOCALOIDへの理解を深めた。どうすればこの曲のように上手な調教が出来るんだろう。「調教できるってすごいんだな!」ってことを理解できた。それまでは「どこか不自然だよね」という見方しかできなかったが、それを機に変わった。まぁこの歌わせみた動画は黒歴史なんだが―。(現在非公開)
VOCALOIDは私に曲を与えてくれた。生活を与えてくれた。・・・中には薄い本も存在するが。(とらのあなで注文したボカ百合祭のアンソロジー。)
 今では毎日VOCALOIDが歌っている曲を聴いている。デジタルな音楽に、プロではなく、皆がつくった専門用語で言うところのいわゆる「UGC」という。その作品を聴き、レビューし、紹介し、楽しんでいる。CDも数枚かった。それをPMPに転送し、通学中、休み時間、家に帰ってから寝る時にも。

少なくとも今は毎日VOCALOIDを中心に生活している。アニメイトにも何度足を運んだことか。アマゾンやとらのあなで何枚CDを買っただろうか。VOCALOIDが好きだ。技術として。猫村いろはが、巡音ルカが好きだ。キャラクターとして。好きだ。VOCALOIDのこの一面が好きだ。歌が、曲が、声が、胸が、足が、技術が、評価が、好きだ。もっと新しい曲が知りたい。もっと猫村えろはな画像が欲しい。(ちょっとまて)

のめり込んだ時の記憶は曖昧でどうしてのめり込んだのかは記憶ははっきりしていない。静かに静かにのめり込んでいったとは思う。だが時にいい曲を見つけた興奮は覚えている。特に興奮したのはオレジナルPの「右肩の蝶」のカバーを見つけた時だったか。これはDAIMでもレビューしている。興奮のあまり数日でレビューを書き上げた。

(http://c-daim.tumblr.com/post/31057195442/p)

他にもいくつか衝撃的な曲との出会いというのはあった。だがだからといってそのまま深みに嵌り込むだろうか。数曲ならVOCALOIDの曲は知っているという人もいるだろう。私だって全てのVOCALOIDの曲が好きなわけじゃない。どうしても個人の好みというのは出てくるし、なにより全てを肯定するような思考は気持ちが悪い。私がJazzやRock・テクノ・Akiba-Popを中心に聴くように。BalladやChill Outを感覚としてあまり好まないように。(聴かないわけではない)
さらには、VOCALOIDの一面にも是々非々というのがある。人によっては過度なキャラクター展開が嫌いな人も存在するだろう。でもVOCALOIDは好きだと胸をはっていえる。その分かれ目はどこにあったのか。

「あなたはVOCALOIDが好きですか?」

この問に胸をはれるだけで十分だろう。だが私は「どうやって好きになったのか」というのが自分への最大の問だと感じている。

続く



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